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三四会社会功労賞受賞(2020年)

三四会について

2020613日土曜日の午後、信濃町の慶應義塾大学病院の2号館11階の三四会会議室にて、三四会社会功労賞をいただきました。母校に認められるということはうれしいことです。

三四会というのは、慶應義塾大学医学部同窓会のことです。三四会についてご説明します。

l  三四会について

三四会について(http://www.sanshikai.jp/gaiyou/enkaku.html)は、下記の記録があります。

l  以下引用(出典不明:慶應医学部史だと思われます)

『慶慮義塾が医学部(創立当時は医学科と称した)を発足させて以来、医学科は一般教養を習得させる予科と、医学教育を行う本科に分れていた。予科は三田において 3年の期間が定められていた。一回生が予科在学当時は当然三田の校舎を使用していたわけであり、各種学園活動(体育会、文化団体等)は他学部の塾生遠と行動を共にしていた。しかし、新設の医学科としての存在を明らかにしたい気持と、一種のエリート意識もあって襟章としてM章をつけようとのクラス決議の結果、塾監局の許可を得た上でM章をつけたが(つけない者も若干あった)これが他科の塾生から反発を受ける結果となり、一部体育会(柔道部その他)は校庭で他科学生との聞に集団トラブル発生などの事件もあった(いわゆるM掌事件)。要するに医学科学生のまとまったものを作ろうとの意識の第一歩で、この気持が今日の三四会の発生原点とも言える。

 四谷に移ってからはすべて自主的に行動せねばならず、そのためいくつかのグループが出来、それらが議論を交して長時間にわたった事も一再ならずあった。殊に運動会や文芸部の活動の費用をめぐっての論争が行われた事は少なくなかった。当時のグループとしては明星会〈穏健純真派)と 三鼎会(積極果敢派〉との対立論争はかなり激しいものがあった。

 これら混乱の雰囲気に対して収拾の気運が起こり、大正8年の二学期において医科懇親会が発足することになった。この会で会費を徴集して各団体に分配することに話し合いがまとまった。

 会の発足がきまり、会則と会名が議論されることになり、本科一年(1回生)と予科の委員連が集まり、会則は決定されたが会名がきまらず後日に持ち越されるととになった。

 1025日夜、柿元魁 (2回生、柔道四段、卒業前に物故)の下宿(麻布十番付近の網代町)に集まり会の名称の議論が行われた。この日集まったのは一回生斉藤常之進、田村、二回生は林、柿元、戸川の五名であった。出された名称の案としては、薪泉会(斉藤案、漢詩からとった)、ホルモン倶楽部(林案、東大の鉄門倶楽部になぞらえ、文字を適当に選ぶとした)、二葉会(提案者 不明)、三四会〈田村案、三田と四谷を意味した〉などがあった。 結果として田村案の三四会が採用されたのである。三四会の名称はその提案の動機についてはきわめて単純なものであったようだ。しかし、その後、種々の意味付けがなされた。故正木俊二〈不知丘と号した)の「産れから死まで」との解説や、故川上漸教授の“三田に三年四谷に四年、慶臆の医学も十二年"と言った唄もそれらを代表するものであろう。

いずれにせよ三四会は大正 9年 1月 29日発足し、三田の大食堂でその発会式が盛大に催された。当時その光景は一回生の卒業アルバムに掲載されており、北里学部長を囲んで本科、予科の塾生全員が祝杯をあげた。

 初代の会長に北里学部長を推挙し、副会長は予科主任とした。学生を主体として発足した三四会はあくまでも塾生の自治活動の産物であり、塾生を通常会員とし、教授や諸先輩は特別会員、卒業生は終身会員として遇したのであった。会長は医学部長を推すことも併せ決定した。

 当時の三四会の目的は会員である学生と特別会員である職員、終身会員である卒業生を含めた会員相互の交誼を厚くすることと、心身の強健をはかることにあった。

 三四会の構成は総務、文芸、運動の三部から成り、発足当時は文芸部には文芸と音楽、運動部に はテニス、野球、ボート、競走などがあった。

 これら各部の部長は医学部教授中より選び、 役員としては幹事 15(会員より 9名、 特別会員と終身会員から 6)、特別委員(本科各教室からl名を選出)、委員(各クラスから選出)、顧問 若干名(三回会関係者から選出)などがあった。その後卒業生が次第に増加して来たし、北島学部長の引退を機会に主体を同窓生に移したものに変わって行った。』

表彰

三四会では、毎年、同窓生から学問的業績を上げた者に北島賞と北里賞を、医学を通して社会貢献した者に社会功労賞、学問的業績を上げた若手に奨励賞を授与しています。そのうちの社会功労賞をいただきました。

受賞理由

今回の受賞理由は、日本心エコー図学会を中心に、日本循環器学会、日本心臓病学会、日本超音波医学会を通じてソノグラファーの教育に熱心に取り組んできた功績を評価されたものです。

今から30年前の1990年頃は、心エコー図検査は、今のように臨床検査技師が行う検査ではなく、医師が自ら行う検査でした。ですから、検査のやり方も医師の流儀に委ねられ、その結果も医師が自分で納得すればよいというものでした。いわば。心エコー図は、検査法というよりも、医師がその機械を用いておこなう診断法という位置づけでした。機械の技術の進歩により、画像は明瞭になり、撮った画像をあとから見て診断をつけるということが可能になりました。そのために、医師ではない者が画像を撮る技術の確立が要求されました。すでに、米国ではソノグラファーという心エコー図技師の職業が確立していたのです。しかし、心エコー検査は、CTとかMRIとは違って、心臓の動きを見る検査です。ただ画像を撮って、あとからそれを見て診断するというものではありません。心臓の動きの異常を見つけて、その異常な動きを記録するという技術が要求されるのです。ですから、心エコーはほかの検査と異なり、ハードルが高くなるのです。

1992年に私は、慶應病院の中央臨床検査部の心機能室室長に就任しました。当時の心エコーは、循環器内科の若手医師が交代で、検査をしていました。みんな忙しい中で、週に1度検査を行う当番があって、それをこなすという状態でした。心カテもやり、病棟の患者も診て、研究も行う中で、心エコーの当番は優先順位が低くなります。よって、心エコー検査の質は高くありませんでした。心エコー検査の質の向上のためには、心エコー図検査に専念する人を育てることが重要であると思いました。そこで、新たに心エコー図をとる技師を増員してもらいました。これが、第一歩でした。

大学病院で技師が心エコーをとるという流れをつけたのです。質の高い心エコーを技師が行うためには、技師への教育をしっかり行わなくてはなりません。日本心エコー図学会の当時の理事長、宮武邦夫(国立循環器病センター副院長)先生も、技師が心エコーをとることの必要性を実感なさっておられ、技師教育に力を入れられました。

1996年に宮武邦夫先生は、学会主導の冬期講習会を開催し、我が国の臨床教育の先鞭をつけました。その時から、私は理事長に声をかけられ、ソノグラファー教育を率先するようになりました。この講習会は、最初は若手医師教育を目的としていましたが、徐々に、その講習会はソノグラファーが多く集まるようになり、今では800人近い参加者のうち80%以上が医師ではなく技師でということになっています。私はこの講習会で毎年講義を行いました。私の講義はポイントを絞っていたので、わかりやすくて好評でした。いつの間にか、日本中のソノグラファーの方が私の講義を期待するようになっていました。

その後も心エコー図に関する数多くの講習会で、先頭に立って、数多くの教育講演を行いました。1999年からは心エコーWinter seminarという泊まり込みのセミナーの立ち上げにも参画したり、ほかの循環器の学会のコメディカル教育に協力しました。

私を含めた当時の日本心エコー図学会の幹部たちの努力により、我が国の臨床検査技師の心エコー検査レベルは向上し、それに呼応して検査需要も増大した。そして21世紀に入ってから、心エコー図検査は爆発的に普及しました。

2011年からは、慶應関連病院の心エコー検査の充実を目的として、慶應心エコーカンファレンスを立ち上げ、毎年、200名近い関連病院の技師が参加する講習会を運営しています。今では、名前を信濃町心エコーカンファレンスと変更して継続しています。

 2014年からは、東京で開催される学会主催の講習会の責任者として、首都圏の技師教育を充実させました。私の講習会のプログラムは、ユニークで特徴的であったといわれていました。この講習会も、私が責任者として担当してから、参加者が40%増加しました。

2013年に私は第24回日本心エコー図学会学術集会を主催しました。この学術集会がそれまでの学術集会とは異なっていた点は、技師の参加が非常に多かったことです。前年の学術集会から30%以上の参加者増があったが、この増加はほとんどが技師の参加でした。

 さらに、日本心エコー図学会では、ガイドライン作成委員会委員長を努め、経食道心エコー図検査の実施に関するガイドラインを作成しました。このガイドラインでは、医療安全の観点を含めた経食道心エコー図検査実施のための指針として、多くの学会員に有用かつ頻用されるものとなっています。また、負荷心エコー図検査についても日本独自のガイドライン作成を主導しました。

ASE/ESCVI(アメリカ心エコー図学会、ヨーロッパ心臓画像学会)が作成した心エコーのガイドラインの日本語翻訳を提案し、実行しました。このガイドラインは、スペイン語や中国語など多くの言語に翻訳され、世界各国の学会ホームページに掲載され、心エコー図検査の世界標準化に役立っています。世界共通の心エコーにするためには、このガイドラインを我が国でも普及させることが重要であると思ったわけです。ガイドラインを日本語化することが、技師への臨床教育に不可欠と考えました。私は、ガイドライン委員会を主導して、4つのガイドライン(総計150ページ以上)の翻訳を完成させました。私は、前文に目を通して、誤訳がないようにチェックしました。このことは、日本における心エコー図検査の標準化や信頼性の向上に大いに役立ったものと考えています。